今更ながら『けものフレンズ』を観た。
動物の擬人化、女の子化は別に目新しい要素でもない。ストーリーも見覚えのあるような友情と成長のロードムービーだし、謎の3D描画は本当に謎だった。
それでも、けもフレはよかった。
かばんちゃんの機転に感心したり、サーバルちゃんたちの雑な絡みに突っ込みを入れたり、おにいさんおねえさんの解説でIQを補給したり、最後の戦いをじっと見守ったり……。
迷ったりピンチに遭ったりしながら全12話を経て、気が付けば私もかばんちゃんたちと一緒に旅をしていた。
出会えてよかった物語だと心から思う。
(以下、若干ゃネタバレあります)
けもフレの大きな特徴に「動物の能力の(擬人化の枠組みの中での)描写」がある。
身体の特徴や能力、気温や環境への適応力だけではなく、飽きっぽい・頭が良いなどの「性格」もさりげなく反映されていた。
そしてこの「動物の能力の描写」は、翻ってみれば「人類の能力の描写」でもある。
動物の外見や特徴を付したヒト型の少女こと「フレンズ」が暮らす世界、ジャパリパ-ク。
ここで記憶を失くしたまま目を覚ました主人公・かばんちゃんが「自分は何者か=何の動物か」を探しに仲間と一緒に冒険する。
冒険の中で、かばんちゃんは幾度となく他のフレンズ=動物にない能力を発揮した。
持久力やモノの投擲、道具や火を使用、疑似的な争いとして「遊び」「スポーツ」を発案した。
かばんちゃんは他のどのフレンズ(動物)とも違う、異色な存在――ジャパリパ-クから消えたヒトだったのだ。
そう、ジャパリパ-クは人類滅亡後の世界だったのだ。
美少女アニメの対極にあるようなポストアポカリプスな世界観はリアルタイムで観ていたらかなり衝撃的だっただろう(観とけばよかった……)。
作中の世界観 や動物の描写に対する生物学や人類学、SFの観点からの考察・考証がネット上で大流行し、けもフレはついに2017年最大の「覇権」を手にした。
前述のように、作中では幾度となくかばんちゃんを通して「人類だけができること」が描かれた。
その一つが次のストーリーである。
主人公たちは道すがら、アメリカビーバーとオグロプレーリードッグのフレンズに出会う。2人はそれぞれ自分の「家」をつくろうとしていたが、どちらもなかなか完成に至らないという。
ビーバーは家の設計を模型まで作るほど精巧に計画するが、あまりの心配性で実行に移せない。プレーリーは即座に穴を掘ったり瞬時に木を伐ったりすることができるものの、無計画にとりかかってはすぐに行き詰まる。
そんな両者を見て、主人公は「2人で一緒に作ったら?」と提案する。
ビーバーが設計と指示を、プレーリーが作成をそれぞれ分担することで、2人の立派な家はあっという間に出来上がった。めでたしめでたし。(『けものフレンズ』第5話)
この話で描かれたかばんちゃんの提案は、
・個体一人ひとりの性格や適性を見きわめ
・集団(複数)で
・分業を行う
という行為である。
これらはまさに、人間が文明化の過程で獲得した概念に他ならない。
とくに「分業」という行動は人類の大きな特徴だ。
19世紀、社会学者のデュルケームは社会における「分業」をテーマにした論文を発表した。彼いわく、「分業」は発達した社会でみられるものであり、近代化と産業化の原動力である、という*1。
まあでも、難しい学者の話を出すまでもない。分業が現代社会に不可分な要素なのは誰でも実感できるだろう。
料理が苦手でも無理して自分で作る必要はない。外食や惣菜などで「代わりに」料理してもらえる。
生きるために水を汲む必要も、薪を集める必要も、食べ物を得る必要もない。水道局の人が水汲みを、ガス会社の人が燃料集めを、農家の人が収穫を、それぞれ「分担」してくれる。
そして私たち自身も、何らかの形で誰かの「代わり」を「分業」している(することになる/することを強いられる)。
〈人が1人いるだけでは1人分のモノしかつくれないが、100人いれば110人分のモノをつくることができる〉*2。
余ったモノで商売ができる。あるいは余った時間が余暇になる。
「余剰」から経済が生まれ、文化が生まれる。
分業と協働は文明化の大きな手段である。
もし19世紀の学者がこはんコンビ回を観たとしたら、ヒトであるかばんちゃんは動物たちの「旧体制」的な社会に「分業」という概念を与えた新時代の象徴として映るかもしれない(ついでに微百合も評価してほしい)。
でも、それで終わりなのか?
私たちはこの話をハッピーエンドで済ませられるだろうか。
分業の時代は、同時に「産業」の時代でもある。
大量の資源を用い、大量のモノを生産する。そのためには大量の人間が働き、次世代にはより大量の人間を必要とする。
たしかに「産業」がある社会は、社会の内からモノが生まれる。奪い合う必要などない。
こうして産業は、奪い合うなどという不毛な行為――戦争を駆逐する。19世紀の人々はそう願っていた。
でも、21世紀の私たちは知っている。
産業社会はひたすら「効率」を追い求める。「効率的な社会」に人間の感情など必要ない。過労死、うつ、ブラック企業……。
果てしない生産と需要は資本主義となり、いつしか帝国主義へと形を変えた。行きつく先は貧富の差や植民地となって表れた。
その後にあったのは? 昔の人がなくなると願っていたはずの戦争だった。それも破滅的な。
産業は決して平和的な存在ではない。
いいかえれば、「分業」もハッピーエンドでは終われないはずだ。
よりよく生きるための分業は、いつしか分業のための分業になる。分業のための分業は人間を疎外する。競争は戦争になり、そして戦争は無数の分業によって行われる。
極端な表現でいえば、分業が戦争を生み出すのは必然である――といえてしまうかもしれない。
ジャパリパ-クにけものはいても のけものはいないのは、皮肉なことに人類がいないから――フレンズたちが(完全な)人間でないからだった。
そんなかれらに、ヒトであるかばんちゃんが(人類固有の能力を使える)人間性を教えたことは、ジャパリパ-クにとってよかったことなのだろうか。
かばんちゃんの善意を私たちは知っている。
私には、まだ分からない。
でも!でもでも!
そんなことはささいな話。
難しい批評なんていらない。けものフレンズはよかった。それで十分だろう。
今となっては謎3Dも、雑な絡みも、おにいさんの解説もみんなすきだ。
かばんちゃんたちの旅がまた始まってほしい。ジャパリパ-クは平和であってほしい。
そう願っている。
↑同じ穴の狢。
近況ですが、前記事で予告したとおりイスラエルとロシアに行ってきました。
そっちの旅行記も近日中に公開します。ごめんな。謎けもフレ記事で。
*1:筆者はJKで難しくて読めないので詳しい人教えてください
*2:旅に出よう、滅びゆく世界の果てまで。 (電撃文庫) より、手許に本がないため不確かなかたちで引用しました。本来であれば不適切な引用ですが、とうしても文中で紹介したかったので変則的に触れました。