約1年前からADHD傾向を改善する薬「ストラテラ」を飲んでいましたが、
このたび、定期的な服用から卒業しました。
※以下、あくまで専門的な知識を持たない者の感想です。
服用などに関して検討される際には必ず医師・薬剤師・カウンセラーの指示に従ってください。
あらすじ
jk17.hateblo.jp
↑前日譚です。
おさらい
いままでの経緯
詳しくは前記事に書きましたが……、
- もともと「他者となにかが噛み合わない」ような漠然とした生きづらさを感じてきた
- 去年いろいろつらいこと、進退が窮まるようなことが立て続けに起きた
- 「これって発達障害では?」という疑念が高まる
- 春ごろに心療内科を受診してみる。
- 知能検査を受け……結果は「ADHDの診断は下せないが、傾向は認められる」
- 結果的に発達障害ではなかったものの、日常生活が大変そう(大意)ということで《期間限定》でストラテラを処方してもらうことに
――という経過を経て今に至ります。
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服用方法については↓のとおりです。
・1日1回、夕食後=これはみんな同じ
・25mg→40mg→65mgと段階的に薬の量が増える
ちなみに私については↓のような人間です(前記事から引用)
・既往歴は特になし。
・常時死にたいにゃん😼な気分。
・でもうつ病とかの診断をもらったことはない。
・いわゆるメンヘラではないと思う。たぶん。そう思いたい。
・「抜けてる」タイプだと思う。単純なことや少し考えればわかることを平気で忘れたり分からず大惨事を招いたりする。
・早寝早起きができない。「生活リズム」というものがない。
・遅刻は日常茶飯事、30分前に着こう!と思い立ったのに(あれこれ余計なことを気にかけて)気が付いたら10分遅れで着いた、なんてことはざら。
なんで飲むのをやめたの?
主に二つ理由があります。
もともとそういう計画でした。
処方が決まったときに“年度末までの《期間限定》で”という話でした。
診断的にはADHDではないので、薬を処方する義務はない。
ただ、私の性格を鑑みて薬を飲めば生活しやすくなるかも、ということできりのいい年度末を区切りにして試験的に服用してみたのです。
卒業は既定事項でした。
副作用>作用(たぶん……)
とはいえ、3月までというのはあくまで計画で、4月以降も続ける延長オプションも行使できました(イブラヒモビッチではない)。
それでも私は予定通り服用を終える方を選びました。
飲み続けてみて、よかったことよりもつらいこと――副作用の方が大きく感じたからです。
ストラテラの効果として有名なのは「不注意傾向(物忘れやおっちょこちょい)を減らす」「落ち着きのなさ(多動性)を抑える」などです。
私の場合で最も効果を発揮したのは「朝早く起きられること」でした。これはとても大きな効果で、遅刻魔だった自分が自然に起きるまでになりました。
確かに早起きはできるようにはなりました……が、目に見えた効果はそのくらいでした。
もちろん不注意の改善や落ち着きのなさの抑制も目に見えないところで表れていたのかもしれません。
が、それ以上に副作用が目立っていた。
副作用。とにかく飲んだ直後に吐き気が起こる。
本当に吐いたことはないし、「夜7時ごろ・夕食後すぐ」という適切な時間帯に飲めばさほど感じないものの、そもそも適切な時間に飲めない/忘れるというジレンマが。
~23:59~「あ!ストラテラ飲み忘れた!今飲むか~」
→「南無!w」
というのがいつものパターンでした。
あと、飲酒の前後に飲むと余計吐き気がひどくなる。
そもそも薬を飲むときに酒も飲むな、というのはその通りなのですが、そうはいっても楽しみを我慢するのはさらにつらいものがある。
それ以外の副作用と思われる症状もありましたが、一番つらかったのは吐き気でした(´・ω・`)
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そしてもうひとつ、決して軽くはない副作用があります。薬代が高い。
65mg×4週間分で約8000円。もちろんジェネリックもない。
しんどい思いをしてまで払い続けるべきかなあ、と迷いました。
もう治ったの?
そんなことはありません。
発達障害は一時的な「病気」ではなく、性格と不可分な「傾向」です。
私の「生きづらさ」は程度の差はあっても一生の付き合いになるはずです。
もっといえば、今回の卒業はあくまで「仮」です。服用をやめてしばらく経って、いまのところ日常生活に支障はきたしていませんが――もしもまた諸々の問題が起きたら、私はまた「入学」するかもしれません(その旨は主治医の先生とも相談しています)。
そもそも……。私が受け取った検査結果、
「ADHDの診断は下せないが、傾向は認められる」
とはどういう意味でしょうか?
ずっと前の診断結果について(今更)先生に意図を尋ねたところ、このような答えが返ってきました。
「発達障害の軽重は一概に測れず、[女學生]さんの程度が軽いわけではない。
ただ、[女學生]さんの場合は学校にも通えている*1し、なんとか社会に適応できている。
表面上でも社会的に問題なく生活を送れている人に『障害』の診断は必要ないし、それどころか順調な日常生活を邪魔してしまうかもしれない」
知能や性格は検査で数値化できるし、客観的な指標をもとに判断することができる。
でも、「生きづらさ」や「社会とのずれ」はあくまで主観的な感覚であり、簡単に測定することはできない。
ADHDを含めた発達障害は、それ自身では誰も困ることのない障害である。 “コミュ障”も遅刻魔も、自分ひとりだけの世界なら誰も認識しない。
自分が“コミュ障”だと自覚するのは、周りの他者との関係があって――つまり「社会」を通してはじめて気づくことだし、 “コミュ障”という概念が存在する「社会」だからこそ自覚することだ。そして、“コミュ障”を負い目に感じるのは、「“コミュニケーション能力”は重要である」という価値観を社会で共有しているからだ。
発達障害は、その人自身が「社会」に適応できないなどの困難さがあって初めて「障害」になります。
裏を返せば、その人や周囲の人たちが気づかない、あるいは困っていなければ「障害」ではない。
私の場合、寝坊はするし言われたことをすぐに忘れるしおっちょこちょいだし……と、たしかにADHDの条件は満たしています。
でも、それでもなんとかギリギリのところで「ふつうの人」たちと一緒に暮らせています。大変だけど、なんとかね。
そういう意味では、私は《この社会で生きる上では》「障害」を持ってはいない、と言えるのでしょう。
極論をいえば(私の考えです)
- 発達障害の特徴を全部備えているが、周囲が理解してくれて問題なく生活を送れている人
- 検査結果が平均値でも、明確に社会や周囲との摩擦を抱えている人
この二人のうち、何らかの「障害」の診断が下される(べきな)のは後者の人でしょう。
発達障害は――もちろん他の身体的な病気もそうですが、それ以上に――「社会」「環境」の要素にどこまでも強く左右されるようです。
「障害」と「社会」――まとめにかえて
「発達障害」と「社会」のかかわりについては異論のある方も多いでしょう。
「発達障害だけじゃない、あらゆる病気は社会との関係で規定されるのでは?」
「なんでも社会のせいにすればいいのか?病気や障害そのものを客観的に判断するのが医学なのでは?」
どちらも間違いじゃないと思うし、高2の私の理解なので間違っているところも多数あるはずです(指摘お願いします……)。
それでも、私は先生の見解と診断(を下さなかった)理由に深く納得しました。
そんなに上手く適応できてないんだけどなー、とも思うけど、今のところ食い詰めているわけでもないしね。
心療内科の先生をはじめ、周囲の皆さんの理解もあり、無事に一年間を乗り切ることができました。心から感謝しています。
(実は一時期マストドンやTwitterでも似たようなことを話したりしていました。相談に乗ってくれたみなさんもありがとう)
そして何より、ありがとうストラテラ。
いろいろ大変な目にも遭ったけど、それでも一年間助けてもらいました。
最後に。
「障害」は悪いことではありません。
「生きづらさ」を感じるのも、ここまで複雑な社会を生きる私たちならそう珍しくもないはずです。
生きづらさを感じている方は一度ぜひ適切な機関に相談してみましょう。
精一杯生きていこうな。
*1:私は高2です。