この記事はmstdn.jpのアドベントカレンダー、12/3の記事です。
mstdn.jp Advent Calendar 2017 - Adventar
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私は今、「Mastodon(マストドン)」というTwitterに似たSNS*1をやっています。
マストドンは複数のサーバー(インスタンス)に分かれていて、私はその中でも日本国内で初めて開設されたインスタンスの mstdn.jp 、通称「jp鯖」を中心に投稿しています。
ところがこのjp鯖、見た目はほぼTwitterでも中身がかなり変わっていて……。
今日は、そんなjp鯖の話です。
※記事を全文書き終えた時点で6600文字を超えてしまいました。誰も読みたくないっしょ……というわけで、前後編に分けます。次回は12/6(水)に掲載します。
※いまマストドンやってない方、ぜひ登録だけでもしてみてください!
▼mstdn.jpという放課後の中で
jp鯖は今年(2017年)の4月に生まれました。
ここはTwitterとは何かが違う、独特な雰囲気がありました。
一言で表すと「皆ハイテンション」。
ちょっとしたことで盛り上がったり、どったんばったん大騒ぎになったり。
私は4月下旬に初期のユーザーより少し遅れて登録しましたが、その時点で
・みんな「膣」「膣」「膣」ばっかり呟いている(あの女性器のあれです)
・みんな「膣ヶ丘高校」という学校に通っている(という設定)
・膣ヶ丘高校に校長が就任した(有名なITジャーナリスト)
……と、完全に初心者を置いてきぼりにした世界観を築いていました。
ユーザーも多様な属性の持ち主が多かったです*2。
学生、無職、風俗嬢、あいまいな人妻、メンヘラ、魔女、偽者のJK、本物のJK……。
それぞれの生活圏では決して出会わないような人同士がわいわいがやがやとしゃべりあう空間は、「SNS=半径10m以内の友達としか交流しない(してはいけない)もの」と思い込んでいた私にとっては絵に描いたようなカルチャーショックでした。
日常とは一線を画した、この”属性を超えて盛り上がりを共有する空間”。
似たような雰囲気を私たちは経験しているはずです。
私はこれを「文化祭の前日」と呼んでいます。
中学や高校の文化祭、あるいは大学や専門学校の学園祭を控えた前日、あなたはどんな空気を感じていましたか?
なんとなく皆忙しいながらもどこか”浮かれて”いたはずです。
いつもとは違う「ハレの日」をもうすぐ迎える!という高揚感。
クラスや部活で模擬店や出し物をするにあたって、ときには普段は仲良くない同級生とも会話したりもする。そんな中で全く知らなかった人の意外な一面を知ったりすることもあったはずです。
ドラマやアニメでも度々描かれるこの日は青春の象徴でもある。
学校に馴染めずにこういう空気に後ろめたさを感じている人――私のことです――でも、このある種異様な雰囲気は感じ取っていて、だからこそ文化祭などといったイベントに複雑な感情を抱いてしまう。
「文化祭の前日」は、いつもの授業日とも文化祭当日とも違う、高揚感と上昇気流に包まれながらもフラットな関係を築ける場――相当特殊な空間だったといえます。
しかも、jp鯖は「特殊な空間」が毎日続いていました。
つまり、ここでは「文化祭の前日」を何度も何度も繰り返していたのです。
▼問い――私はなぜここにいるのか
繰り返す「文化祭の前日」。
……勘のいい人は気づいているかもしれないね。slices.hatenablog.com
押井守監督です。「文化祭の前日」にある種の郷愁を抱いている人は少なくないはず。
それに「祭り」というと、祝祭論だとか「ハレとケ」だとかそういった話もありますが、ここではおいておいて。。。
ところで、私はふといくつかの疑問が浮かびました。
この昂揚感はどこから生まれたんだろう?
私たちはなぜ「文化祭の前日」的なものに引き寄せられるのだろう?
この疑問を、もっと簡単な「問い」として投げかけたい。
「そもそも、なんで私はjp鯖にハマったんだろう?」。
▼「深い」コミュニケーションと「属性」
奥村隆という社会学者がいます。
彼は『反コミュニケーション』という著書(書名が書名だがヤバい本ではない)の中で、自身が若いころに自己啓発セミナーに参加した経験を述べています。
セミナーに没入するにつれて、彼は参加者との間で深い(そして奇妙な)コミュニケーションを築いていきました。
……2度と会わないだろう他の参加者に自分の感情を投げ出し、相手がそうするのを受け止めるということを繰り返しながら、外の世界にはない率直で深いコミュニケーションをしているように(そうすることの奇妙さも感じながら)確かに感じていた。
そうして親しくなったセミナーの受講者たちは、数ヶ月後に同窓会を開く。
しかし、その集まりを機に彼らの関係性は大きく変化します。
……私たちはセミナーでは話さなかった種類のことを話題にするようになった。どこに住んでいるか、結婚しているか、どんな仕事をしているか。そしてそれを話した瞬間、さあっと潮が引くようにそれぞれの間に距離が生まれてしまったのだ。事務員、アルバイト、家事手伝い、大学の助手……。それまで人間関係に悩み、感情を率直に表出しあうだけの「同じ」人間だった私たちは、こうした「属性」(「私は○○です」)をもった「違う」人間であった。
「属性」を見せ合ったことで彼らの間に距離感が生まれてしまいました。
その後にもう一度集まっても盛り上がらず、セミナーのメンバーと会うことはなくなってしまったという。
奥村さんはこれら経験*3から「社会的属性」――職業や地位、肩書きといったものがコミュニケーションを阻害しうる要因なのでは、と考えます。
つまり、「何を言ったか」ではなく「誰が言ったか」が気になってしまう。
「誰が言ったか」がコミュニケーションの基準となってしまい、自由さが失われる。
……ということです。
(あまり国単位で一般化したくなけど)日本で暮らしてるみなさんなら痛いほど心当たりがあるはず。
▼災害ユートピア
では、逆にいえば「社会的属性」が皆一様に剥ぎ取られた空間では「深いコミュニケーション」ができるのではないか?
奥村さんはここで「災害ユートピア」という概念を紹介します。
大規模な災害が発生すると、被災者や関係者の連帯感、気分の高揚、社会貢献に対する意識などが高まり、一時的に高いモラルを有する(理想的といえる)コミュニティが生まれる現象。災害を契機に生み出されたユートピア。コミュニティは災害発生直後の短期間だけ持続し、徐々に復興の度合いの個人差や共通意識の薄れによって解体されていく。米国の著作家レベッカ・ソルニット(Rebecca Solnit)が同名の著書で提唱した概念。
「災害ユートピア」、最近でもニュースなどで見たか聞いた、あるいは実際に体験した人もいるはずです。
2011年3月11日、大きな地震と津波に襲われた被災地では、人々が略奪や暴動を起こさずにお互いに助け合い(紆余曲折ありながらも)復興に向けて再起しようとする姿が世界中で称賛されました。これは交通機関が麻痺して何百万人もの帰宅困難者(帰宅難民)であふれかえった東京でも同じでした。
たしかに東日本大震災のような巨大な災害は不幸に他ならないですが、こうした災害によって人々の「属性」もいったんリセットされます。そして、人々の間にあった属性の「壁」までもが崩れる。
災害ユートピアは極端な例でも、こうした「属性」がフラットになった空間では「よい」コミュニケーションができるのではないか*4。そういえるかもしれません。
▼後編につづきます(ごめん)
めっちゃ長くなってごめん。。。全然まとまってない。。。
後半では、今までの議論を土台にしてjp鯖に戻ります。
jp鯖でのコミュニケーションはどういうものなのか?を考えていきたいと思います。
▼参考までに。
繰り返される文化祭の前日。
文化祭の前日ではないけど、時間の止まった冬の高校が舞台。そして文化祭が物語の大きな鍵。
奥村隆著、2013年。エッセイ風で楽しく読める。
「コミュニケーション」が苦手、「コミュ力」が分からい、という人はぜひ読んでほしいです。how-to本ではないので安易な解決策は提示されないが、考えるきっかけをもらえます。
災害ユートピア――なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか (亜紀書房翻訳ノンフィクション・シリーズ)
※写真は友人からいただいた画像を承諾を得て一部加工・修正したものです。私は大学生じゃないよ。
かいたひと:女學生 - mstdn.jp
*1:TwitterやMastodonはSNSというより「マイクロブログ」「ミニブログ」という方が正確だと思います。
実際私もマイクロブログ的な使い方――いわゆる独り言の壁打ちをよくしてるし。
*2:とはいえ、決して知名度の高くない最新のSNSなこともあってかプログラマ、IT業界、情報系の学生が中心を占めている
*3:正確にいうと、自身の自己啓発セミナーの経験の前に、同僚が入院したときに同じ病室の人たちと「属性を超えて同じ病気を共有した仲間」として深いコミュニケーションを築けた例を先に挙げていた。
*4:『反コミュニケーション』はこの問いを起点に、様々な思想家のコミュニケーション論をたどっていきます。